E・サイデンステッカー『現代日本作家論』1964、西欧流小説観の押しつけめいてちょっと不愉快
さて、ドナルド・キーンさんと並ぶ、近代日本文学を世界に
紹介したというE・G・サイデンステッカーさん、川端康成が
賞金の半分を「あなたのお蔭です」と与えたという話もある。
ノーベル文学賞であるが。・・・・・1964年に新潮社から刊行
された本である。もとは雑誌「自由」に連載された作家論シリ
ーズ、永井荷風、川端康成、谷崎潤一郎、志賀直哉、太宰治、
林芙美子、武田泰淳、三島由紀夫の9名の作家についての作家
論である。
作家論は往々にしてドナルド・キーンさんの作家論と混同が
起きてしまいがちになる。キーンさんほどその本は読まれてい
ないと思うが、この作家論、意外に面白く有意義だと感じる。
サイデンステッカーさんは小説というものに、ジャンルに実
に厳格なイメージを抱いているのだ。小説、ノベルは物語テイ
ルやロマンスではない、というのである。叙情詩でもないし、
エッセイであってもならない。日本人ならロマンス、テイルと
ノベルは違うと云われるとちょっと当惑するかもしれない。
著者によると、小説というものは劇的な想像力で構想され、
発端、展開、結末を持たねばならないと。小説で重視すべきは
文体やテーマ、思想、倫理ではなく、客観的な人間像の明示で
なければならないという。
こういう、云うならば、アリストレス的な、西欧的な基準で
照らしてみれば、近代の日本の小説はその基準から外れてしま
う。一種の落第だというのだ。漱石はあまりに倫理的すぎて、
鴎外はあまりに文体重視ゆえに、徳田秋声や島崎藤村は劇的な
想像力に欠けている、感傷的すぎて志賀直哉、武者小路実篤は
あまりに自己中心的。またあまりに些末的ゆえに宮本百合子、
小林多喜二も自己中心的だ。問題的、感傷的ゆえに、みな西欧
基準の小説ではない、というのだ。
著者、サイデンステッカーの根本的な立場は近代日本独特の
私小説を極めて非小説的なものとして否定し、作品を作品とし
て批評せず、作品を通路として作家の人間性に執着する現代日
本の文芸的なものの価値観に反対するというのである。
もしサイデンステッカーの作家論がそういう文学観、小説観
の証明として書かれたものなら、正直、日本の読者がここから
学ぶものはほとんどないだろう。
サイデンステッカーはそのような小説観を抱きながら、単に
西欧的な基準としては律しがたい、近代日本文学の中の小説の
本質を理解し、実は肯定しようと努めているのではないか。人
間としていかに偉大でも、小説家としての武者小路実篤はダメ
だという一篇を除けば、どの作家論も心情的であり感覚的であ
り、仏教的で、俳諧風、絵巻物風な日本の小説の個人的な「
美と悲哀」や孤独さ、それをそれ自体として肯定しようとして
いるようだ。
やはりアメリカ人ゆえに私小説には反対、だが太宰治や武田
泰淳の作品のぐたいてき分析を通して積極的な評価、肯定的な
評価がなされている。また三島由紀夫に特に惹かれているよう
である。
正直、日本文学の愛好者、日本人は皆そうだと思うが、この
アリストレス基準の西欧流小説観には賛同しがたいだろう。
アメリカ人にどこまで日本人作家の小説の真髄がわかるのか、と
反発したくもなるのは自然というものだ。
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