久米正雄の「私小説本道論」を考える


 芥川龍之介が久米正雄の「私小説こそ小説の本道、私小説で
ない小説は信用できない」との考えに小論を書いて反駁した、
こおがあった。手許に今、その文章がないのだが、「嘘でない
から私小説しか信用できない、というが嘘でないということは
芸術上、何の権威もない」とやんわり反論を書いていたと思う。

 だが、そもそも久米正雄の私小説本道論とはどういう内容で
あったのか、である。芥川全集はあっても久米正雄全集ってな
いものだ。

 久米正雄によれば、芸術は人生の創造などではなく、たかが
その人の踏んできた一人生の再現でしかない。すべての芸術の
基礎には「私」がある。ならば、その「私」を他の仮託なしに、
素直に表現したものが、すなわち散文芸術においては「私小説」
こそが芸術の本道であり、基礎であらねばならぬ。「他」を描い
て「自」を行きわたらせるという西洋文学の本道は、結局、芸術
を通俗たらしめる一手段にしか過ぎない。この見地から見れば、
トルストイの「戦争と平和」もドストエフスキイの「罪と罰」も
高級は高級だが、通俗小説でしかない。

 というのである。芥川は「嘘でないことは芸術上、何の権威で
もない」も常識論だろうが久米正雄の私小説本道論はかなりの勢
いがある。その理論!は素朴に過ぎるとは思うが、」それはそれ
で筋は通っていると思える。真の文学が「人間の個人的な表現だ」
というなら、それは欧州の近代文学にも通じるだろう。・・・・・
ならばドストエフスキーもバルザックも葛西善三や川崎長太郎にも
劣るのだろうか。

 久米正雄のいうように「他への仮託」なしに表現するのが芸術の
本道というなら、小説より詩のほうがよほど文学の本道になるだろ
う。なら詩よりも短歌とか俳句の方がよほど純粋で夾雑物のない、
純粋な文学の本道になるだろう。自らの吐息こそが究極となりかね
ない。それはそれで、筋は通る。だからこそヨーロッパでも、かっ
て存在しなかった短詩形は生まれているのだろう。この世で究極の
文學は日本の俳句ということにもなり得る。

 俳句はさておいても、久米正雄の理論を押し進めると、小説は詩
の中に溶け込んで消えてしまいかねない。なら、小説論が小説にな
らないことを主張のようでおかしなことにもなる。
 
 西欧文学者」は同反駁するだろうか?聞いたことこともないが、
真の文学は」どこまでも人間の個人的な漂白となった。そうだ、
文學は「人間の個人的な表白だ」となりそうだ。われらの人生は
、絶えず社会の中で他人との関係が重要なのである。それらを通じ
手の三、人間の真実な姿を発見できる。自分と違った人間を発見す
ることこそ価値がある。小説の本質は「再現」にとどまらず「置き
換え」である。小説はその目的は個人と社会との関係にあるのだ。

 これらはモーリアックの考えの敷衍である。


 ダウンロード (7).jpg

この記事へのコメント