永井龍男『菊池寛』1961,時事通信、文壇出身の経済人としての菊池寛の先駆性
永井龍男はまだ創刊間もない頃の「文藝春秋」に1923年、大
正12年にその短編『黒い御飯』が掲載された。まだ19歳の時で
ある。1927年、昭和2年、23歳の時、文藝春秋に菊池寛を訪問、
入社を願い出た。偶然、居合わせた横光利一の推薦もあって入
社できた。菊池寛はまさしく人生の恩師である。1939年には
雑誌「文藝春秋」編集長に就任、1940年に文藝春秋社の編集局
次長、・・・・・なのだが、戦後、菊池寛も永井龍男も公職追
放処分を食らってしまった。だがこれは不当ともいえる処分だ
った。たしかに菊池寛は自ら戦争反対の意見は出せなかったが、
あの時点でもリーズナブルな誠意ある態度で一貫していたのだ。
だが菊池寛は解除の日まで生きることができなかった。
さて、この本は「一業一人伝」シリーズの一冊なので、実業家
としての菊池寛を描き切る、というコンセプトで徹底されている。
そこで冒頭に菊池寛による「文藝春秋創刊の辞」が載せられてい
るのだ。
「私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で考えていること
を。読者や編集者に気兼ねせず、自由な心持ちで言ってみたい。
・・・・・・」
著者の永井龍男は以下のように指摘する。
「大正期を経た文壇人から、狭小な自分たちの世界から、社会
人へ脱皮を遂げようとする意欲の感じ取れる点である。書斎と仲
間と月評の垣を破って、文学を社会的存在として、文壇人が社会
人として生きようとする意欲が、菊池寛という個人の口を借りて、
この機会に表面に出たということが出来る」
菊池寛という人物を作家と考えればその純文学的な作品はごく
少ないし、早くから「生活第一、芸術第二」という当時の文壇の
枠を超えたものだった。常に社会を目指した、それがまずは文藝
春秋社の設立だった。その実業家としての菊池寛を描くのがこの
本の目的であった。それは雑誌ジャーナリズムの発展、その出版
社の創業、云うならば菊池寛は時代の先駆者であったわけで、「
文壇の大御所」なる古めかしい表現もその時代的先駆性があった
わけだ。でもそれすら、昔懐かしい、というわけだ。
菊池寛は大正12年、1923年の文藝春秋の創業、また雑誌創刊か
ら昭和21年の文藝春秋解散まで、文壇出身の出版実業家としての
面に絞った菊池寛記述だ。孤立した存在の文壇と広範な社会のホワ
イトカラーのインテリたちと結び付けた、雑誌ジャーナリズムの
発展への貢献ということだ。
「文化講演会」とか文学賞は基本、菊池寛の創始した企画である。
菊地寛は終戦後、公職追放処分、むろん、多くの著名人も追放処分
となったわけだが、菊池寛は結果的に、大いに失意に陥り、1950年
の追放解除を待たず死去したのは気の毒であった。永井龍男自身も
公職追放処分を受けたがすぐに解除され、戦後の活躍が始まった。
ともかく文壇出身の出版実業家の先駆者としての菊池寛の先見の
明は毀誉褒貶の多彩な面を有している。だが今となればその菊池寛
の功績も人々の記憶からすっかり薄れている。もはやこの本も古書
のレベルだが、経済人としての菊池寛を忘れてはならないという示
唆に富む本といえる。
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