高群逸枝『今昔の歌』1959、稀覯本。女性史研究家、詩人の自伝


 さて、今はときめく高市早苗と多少名前が似ているが、内実
は全く異なる、女性史研究家、詩人、民俗学者としてその名を
残す高群逸枝1894~1964、熊本県の生まれ。1959年、昭和34
年に刊行された今となれば全くの稀覯本である

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 自伝といっていたってエッセイ的であり、短い挿話というか、
話が百篇ほどある。高群逸枝の郷里の熊本の新聞、熊本日日新
聞に連載したものが基本となっている。地元紙への連載という
、何か気安さ、懐かしさというものが満ちていて、郷里の話、
同郷の人々、恩師や友人たち、教え子、親族の人たちの名前が
実名で数多く出てくる。その育った環境や、高群が女性解放の
歴史研究に打ち込み、数多くの本を世に出した動機も察するこ
とが出来るだろう。父親について多くを語り、母についてはあ
まるふれていないようだ。執筆の材料を父親の書き残した日記に
依ったこともあるだろう。基本的に高群逸枝の研究への動機、向
学心は父親の影響を受けていそうだ。

 逸枝の父親は熊本県内の小学校校長を何校も務め、辺鄙な山奥
に学校を開くなどもして、徳富蘇峰と同年であり、「徳富、竹崎、
矢島、嘉悦などのように経世家的」な面を持ちながら、貧しさゆえ
に、生涯、田舎教師で終わった。どこか古武士の風格を持ち、詩作
も行い、山村での指導的役割を果たすことに生きがいを覚えていた。

 逸枝の少女時代、両親は「呉竹集」なる夫婦の歌を編み、除夜に
は子供たちも加わって「手に手に紙と筆をもって、年を送る歌と迎
える歌を詠みあった」という。逸枝が最初、詩人として世に出たの
も、そのような育った環境の素地があればこそだろう。

 逸枝は学校の成績はよく、両親の自慢の子だったという。13歳頃
から父の弟子たちに「十八史略」や「外しき」の代読をするほどで
あったという。明治42年、1909年に熊本の師範学校に入るが在籍2
年でひどい脚気を患い、休むことが多く、結果、退学を命じられた。
これは「病気のためばかりでなく、師範生徒失格者という烙印を押
されたためだった」からという。文芸委員になって書いたものや、
図書館に入り浸って哲学書などを読みふけったことが師範学校生徒
らしくないと思われたようだ。

 当時の文芸は「危険思想と隣り合わせ」も影響していた。元来、師
範は性に合わなかったのも事実で、入ったのはただ父の希望に沿った
だけであったという。師範を退学後、熊本女学校4年編入の試験にパ
スした。だがこれも一年で退学、それは弟が旧制中学にはいったため、
自分は代用教員となって家計を助けるためであった。

 「私には子供の頃からのエネルギーの空費が無念でならない。私が
身にしみて感じていたことは、日本の学校教育が全て金持ちのために
存在していたこと」だという。だが、逸枝が貧困の不幸を身をもって
知ったこと、また後に行き詰まりを打開のため、四国お遍路の旅に出
て、貧しい人々の心理にもふれ、深い慈悲の愛情をもったことが、と
くに日本の女性の立場の弱さを痛感し、日本の女性史研究に生きる決
意をしたという。

 逸枝のやり方は「絶体絶命のところに自分をおき」その孤独の中で
仕事に打ち込むことだったが、これは生まれついての性格にかなった
ものだったようだ。熊本女学校で、校長の福田令寿から「才気をおさ
え、一事に徹せよ」と諭されたことを生涯の指針としたという。

 新聞連載の各回を一冊の本にしたわけで、一篇一篇が実にまとまっ
た内容である。

 

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