石川達三『風にそよぐ葦』1951、戦中戦後の10年を描く社会小説の大作だが、コンセプトが雲散霧消している
このタイトル、「葦」と聞けばパスカルの「パンセ」の中の
「人間は自然の中で最も弱い一本の葦に過ぎない。が、それは
考える葦である」なるフレーズを思い起こすだろうか。この作
品の刊行は1951年、昭和26年である。第二次大戦、対米戦争と
いう日本を焦土化、際限もない犠牲を内外に生んだ悲劇、その
嵐を前にして一人の人間がいかに弱い葦であるか、を思い知ら
されたわけである。弱い葦がいかに嵐にゆり動かされ、折れて
しまったか、それを記録風に描いた社会小説であり、石川達三
のまさに精魂込めた力作というべきだ。
自由主義的な伝統を持つ総合雑誌の「新評論」これは「中央
公論」を想定している気がするが。その「新評論」の社長、葦
沢悠平は妻の兄で外交評論家の清原節雄とともに戦争に向かう
嵐に抗して日本の理性となろうとするが、間もなく清原は執筆
禁止の憂き目にあい、雑誌も廃刊される。戦後は逆に共産党の
支配する組合によって阻まれ、組合運動が多少、沈静期に入っ
タカと思うと、戦時中に発行した雑誌の責任で公職追放処分に
あってしまう。どうころんでもの自由主義者の悲劇である。自
由を叫び続けた清原も時世のあまりの激しい転換に翻弄され、
それを歎き、「結局は個人主義だ」と自嘲の挙句、渡米する。
葦沢悠平の長男、泰介の妻の裕子は夫を気遣う一筋な愛情か
ら、夫の召集解除を知り合いの軍人に頼む。だが結果的に、そ
れは夫が軍隊内で危険人物として残忍に扱われる結果を招く、
夫を蹴り殺した張本人の軍曹、広瀬充次郎と陸軍病院で出会い、
復讐を企てるが逆に体を奪われる。
泰介の弟の邦雄は国粋主義と愛国主義、軍国主義に染まって
航空兵を志願する。戦後は真逆で共産主義運動に身を投じ、そ
れも挫折し、虚無的になる。邦雄の恋人だった女の妹、有美子
は疑いを知らぬ純粋な娘だが、単に温室育ちの結果でしかなく、
乱世を生き抜くには弱すぎ、胸を患い、死んでいく。
野性的パワーのある広瀬充次郎だけは日本の窮地、悲劇を利用
し、闇の商売で蓄財し、政界への進出を目論んだりしたが戦犯の
容疑で巣鴨送りとなった。
石川達三の実際の人間関係、見聞がベースとなっているのは明
らかだが、大戦前後十年にわたって当時、現在進行中の日本、世
界の大混乱に取り組み、大変革期の社会小説を書こうとした、お
おいなる野心の産物だろうが、女性に対してやたら嗜虐的なのは
一種の見苦しさがある。堂々たる社会小説にしては、現実の人間
関係描写、設定が下卑すぎている。上下二巻の本だが、前半は反
軍主義、後半は反共主義でこの二つの考えはおよそ容易に一つに
まとまるものではない。
最終的に石川達三は将来への悲観的見通しを投げかけているの
は十分、説得力はあるが、そもそも小説のスタートラインがパス
カルがいう「考えることに人間の偉大さがある」という。にして
も人間が行う戦争は単に風にそよぐ葦ではない。どこまでも得体
が知れない人間の心の魑魅魍魎から出る以上、パスカルはどこま
でも綺麗ごとだろう。戦争と平和を描いた大作は、そのものずば
り『戦争と平和』トルストイの戦争のどうにも避けがたい性格だ。
だが近代戦のすさまじさは、何より近代国家の体制的性格に依存
する。この社会小説は長く野心に富んでいても、新聞連載小説の
弊が著しく、とうてい成功作とはいいがたい。
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