南條範夫『燈台鬼』1956,直木賞受賞作、以後残酷ものとされる歴史、剣豪小説を量産のスタート
南條範夫とはその独自の残酷もの、とも称される多くの剣豪、
歴史小説を残した大小説家と言える存在だが、何か、しっくり
分からない、という印象を与えるかもしれない。戦前、東大法
卒で満鉄調査部、日本出版文化協会、三井本社などに勤務。軍
による東亜支配を支える統制経済計画の策定に深く関与。戦後、
1946年、日本再建委員会常務理事、1949年から国学院大教授、
1952年から立正大教授、経済分野を担当した。というと、戦前
からの経済官僚で戦後は大学教授、どうも小説家らしからぬと
いう外見では印象を与えるかもしれないが、実は、・・・・・
である。1960年過ぎ、週刊読売のインタビューで
記者:結婚なさったそうで?
南條:ばあさん(母親)がギャーギャーいうから、別に結婚
しなくてもよかったんだが。
記者:大学勤務はどうですか?
南條:年に七か月も休みでボーナスも年二回くれるんだよ。
生まれ変わってもやりたいよ、大学教授は。
記者:残酷ものの起源は?
南條:戦前、満州に満鉄調査部でいて、日本軍の残虐行為を
いやというほど見て、なぜ日本人はここまで残酷になれる
のか?と思ったからだよ。
そのせいで映画「武士道残酷物語」などの脚本に加わってい
る。
人柄を何か想像しにくい作家だが、以上のインタビューだけで
多少、わかるのでは?
その直木賞受賞作、それまで何度も毎年のように直木賞候補に
上がっていた。
『燈台鬼』だ、燈台鬼は独自の歴史歴意味がある。
唐の大暦十四年三月上巳、代宗皇帝が在京各国の使臣を蓬莱宮
に招いて、曲水の宴を催したことがあった。そのとき、参列した
日本の遣唐使、小野石根は自分の席次が新羅の大使より下位にあ
ることに不平を言って無理やり、新羅大使の上席に立った。その
ため新羅人の恨みを買い、帰国数日前に襲撃され、どこかに連れ
去られた。そのとき、石根とともにいて何とか難を免れた留学生
の高階遠成は、帰国後、石根の家族を訪ね、石根はまだどこかに
生きているかもしれないと言った。
石根の子、道麻呂は唐へ父探しに行くことを決意し、ひたすら
勉強し、とくに唐の言葉を自在に操れるほどになった。
延暦二十三年七月、道麻呂は宿願を果たし、高階遠成とともに
遣唐使船に乗り込み、唐にわたり、長安の都について父を探した
が全く手掛かりがない。
その後、期日到来で道麻呂一行は揚州大都督府まで引き上げた
が、明日日本に出発、という前の夜に、節度使の別邸で送別の宴
が催され、その席上、道麻呂は所望されて、子を思う母の歌を哀
切をこめてうたった。すると風もないのに、客殿の奥に立てられ
ていた三つの大きな燭台の一つが揺れて、それと同時にその燭台
が下役人によって鞭うたれていることがわかった。
道麻呂が近寄って眺めると、それは燈台鬼と呼ばれる人間の
燭台で、下帯ひとつ、全身不気味な色彩で塗られ、顔は悪鬼の
形相、の一人の老人が、両手両足を鎖で縛られ、頭には鉄のタ
ガがはめられ、そのに十本のろうそくが立ててあった。途端に
ロウが顔から頬に流れ固まって、人の顔と思えない相貌だ、そ
の燈台鬼が道麻呂の顔をじっと眺めた瞬間、「ぐわっ」と奇怪
な叫びをあげ、歯を唇を破り、床上に血のりを垂れて足の指先
につけ「石根」と書いたのである。
道麻呂と遠成は節度使に頼み、この燈台鬼を受け取り、黒い
衣を着せて帰国船に運んだ。そして二人は石根から、彼が森羅
人に襲撃されてから、人に売られ、毒を飲まされ、筆を持てな
いように十指切り落とされ、遂に無残な燈台鬼にされたと知ら
された。だが石根は途中、すきを見て海に身を投げた。
よくぞ、こんな残酷な話を思いついたと驚いてしまう。だが
充実の一語につきる。人間の執念がおそろしく描かれる。この
作者の特質は現代ものを書くと甘くなるが歴史ものを書くと残酷
基調の充実した作品を書くのだ。
この記事へのコメント