辻平一『文芸記者三十年』1957、大阪外語ロシア語卒の著者の大阪毎日、サンデー毎日での編集者としての回想
これは昭和32年、1957年2月に毎日新聞から刊行された本で
ある。そもそも辻平一という著者である。明治34年、1901年、
奈良県生まれ。大阪外語のロシア語科卒業と同時に大阪毎日に
入社、京都支局、学芸部を経て「大日本青年」という雑誌の編
集長、戦時中は台湾に出向、終戦直前に帰国、大阪で出版編集
部長、つぎに東京で「サンデー毎日」編集長、1956年、昭和31
年に55歳で定年退職。
辻平一さんのコメントがある。
「編集者の仕事なんて、面白くないとやれるもんじゃないです。
で楽しかったから、ついずるずると定年まで来てしまい、先のア
テもなくあるのは借金だけ、都営住宅居住継続です。それまでは、
表舞台に出る花やかな人たちとお付き合い出来ていただけに逆に
退職後はみじめな気分です。でもサラリーマンてそんなもんでしょ
う」
「これまで本など何も書いたこともなく、この本を書いたことで
操は捨てたわけです」
ということで『文芸記者三十年』、目次はとみると「ヒューマニ
スト高田保」、「林芙美子の手紙」、「人生の演出家・佐藤垢石」
などという項目が並んでいる。本書は、毎日新聞の学芸部の記者と
して、あるいは「サンデー毎日」の編集者として、著者の接した作
家たち、とくに大衆文学の作家たちの思い出を集めたものと言える。
上海事変のとき、従軍記を書くために上海に行き、滞在48時間で
「戦争は本当にいやだ。ケガをしたり、死んだらバカらしい。三十
六計逃げるにしかず」と武官室で率直に述べて帰国したという高田
保についての記事や、文壇に出るまでの海音寺潮五郎や村上元三、
井上靖らの精進ぶりを語る話などは興味深いのだが、特に大衆文学
の育ての親というべき千葉亀雄についての思い出は、千葉について
の文章自体が少ないだけに、これは貴重だと思う。
千葉亀雄は新刊書は月に100冊以上、雑誌も大多数、新聞はすみか
ら読み、「サンデー毎日」で募集した大衆文学の数千に迫る応募作品
を、たった一人ですべて処理したという。まさに神業だった、という。
源治鶏太に作品名で『三等重役』なるタイトルを与え、その作品を
書かせたのも著者の辻さんである。「正直、どぎつい題名と思った」
が結果は大ヒット作となった。
「作家にしても、圧倒的に受ける作品は一生でそれほどあるわけで
もない。編集者としても、そのような大ヒットの作品を掲載する機会
は滅多にない。その意味で私は今でも源氏鶏太さんには感謝している」
と謙虚な記述である。
編集者についての思い出も多い。その一人は長年「サンデー毎日」の
編集長を務め、退職後、は不幸続きで同僚にも知らずに死んだ大竹憲太
郎であり、他の一人はデスクを務めたが晩年は難病に苦しみ、遺書を書
いて自殺した渡辺均。どちらも痛ましい思い出であり、著者はこれを「
新聞記者のみじめな晩年とは思わないが、ひとたび運命の神に見放され
たばあい、こうした境遇に落ちてゆく場合もあり得るわけである」
スクープした事件についての思い出は昭和3年、昭和天皇の御大典の
ときに、京都御所の近くにある同志社大学で火事を出し、そのために大
学では「火事の翌々日に全校職員生徒五千名が校庭に整列、不祥事に対
する奉謝式を挙行した。中村総長代理が悲壮なおももちで奉謝文を読ん
だ」
戦時下の厳しかった軍部の検閲については重要な貴重な資料だ。
その他に「芸妓の宿」という小説風に書かれた文章もある。終戦直前
の台湾で、主人公は著者の同僚である。外地の新聞記者のわびしい生活
がよく出ている。
吉川英治が序文を寄せており、「この書は一種の大衆文学側面史をも
為しており、私たちとしては、君の積年の労と徳を深く思わずにはいら
れない」と書いている。
大阪外語は私も在籍の経験があり、戦前から連綿たる人材輩出がある
のだな、と感じる。
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