山代巴『荷車の歌』1956,農村の女性の生涯を描く、稀に見る農民文学の傑作


 この作品はそのままの題名で映画化され、三国連太郎、望月
優子の主演でこれも傑作映画との高い評価を勝ち得ている。実
際、さすがの高評価の映画だけにPrime VIdeoでも「購入、ある
いはレンタル」という対象でちょっとアクセスしにくい映画で
はある。原作は現在はKindleで読むことが出来る。最初は筑摩書
房から刊行されている。角川文庫にもかってラインナップされ
ていた。
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 作者の山代巴は明治から大正の移行期の明治45年、1912年に
広島県府中町、現在の府中市に生まれる。東京の女子美術中退、
女工などに従事したが、プロレタリア運動に入り、治安維持法
などで捕縛され、投獄される。戦後、広島県三次市に居住、そ
の後、東京に移った。

 明治27年、1894年、セキは15歳になった。広島県の山間部の
セキの住んでいた村に、集配人として働いていた茂市が、セキ
の働いている大地主に寄るのを見ているうちに、何か心惹かれ
、茂一が求婚した時は、親や主人の反対を押し切って、勘当同
然にされながら、ともかく結婚した。

 翌年、セキが16歳の春に、茂市は郵便局をやめ、荷車を買っ
て引いていた。茂市には母がいたが、セキには姑の意地悪さを
発揮し、事ごとに当たり散らして無理な働きをやらせ、茂市に
は弁当に白米を詰めながら、セキの弁当には粟の一種を詰めた。
茂市も母は重んじる一方で、セキにはつらく当たり続けた。セ
キは大いに落胆しながらも、帰る家もなく、歯を食いしばって
日々の酷い生活に耐え続けた。

 だがこのような理不尽なひどい苦しみに甘んじているのは別
にセキだけではなかった。近所の嫁たちも、程度の差こそあれ
、日々理不尽な苦しみに甘んじていた。

 セキに女の子が生まれた。発育が悪く、三歳になっても歩け
けない。セキは思い切って里帰りの時、その子を連れて人の情
にすがりながらも、お大師様へ子の命乞いの旅に出た。42日目
に、子が初めて茶店を床几をつかまえて三歩ほど歩いた。

 農村では女の子をビクと呼んで蔑んでいた。しかし、セキの
子はいつしか、姑側についてセキを疎んじるようになった。そ
れでもセキはじっと耐えて、荷車引きの仕事に耐え続けた。茂
市は生活を支えようと身を粉にして働きづめだったっが、母も
死んでいくらか生活も楽になると、女を作り、自分の家に引き
入れた。

 さすがの我慢強いセキも、云うならば「心の虫」が動くのを
抑えがたくなったが、ついに、その女が死ぬまで我慢し続けた。
セキは母の死ぬときに、心の虫を抑えながら人も驚くほどの孝
行ぶりを示した。子供も増え、そこ子たちも成長して成人して
いった。戦争がとうとう本格化、対英米戦争も始まった。それ
もどうにか過ぎ去り、茂市は広島市で行方不明になった長女を
探しに行ったことがもとで急性白血病にかかり、死んでしまっ
た。

 なんとも長い一生である。日本の農村の女性が背負い続けた
苦しみの一生だが、セキは今も生き続け、「何よりもっわしは、
一緒に暮らす嫁や孫たちがわしを分かってくれるのが一番の幸
せじゃ」と晩年はやっと幸福を掴んで暮らしている。

 まとめた文章にしてしまうと、何かギクシャクしてしまったが、
ともかくやっとどうにか安らぎと幸福を掴んだ、その感慨はと聞
くと、セキは喜んで「自分が最後の宝を見つけるまで、悲しかっ
たこと、うれしかったことを思い出しては語って聞かせた」

 まとめるとちぐはぐ感はあると思うが、実際、文学としては
実にまとまっており、なかなか農民文学が成功作品となりにくい
日本文学の性格を思えば、稀に見る成功作、傑作と言って何の過
言でもないだろう。主人公は最後の幸福になるカギとして、「
最後の宝を分かろうとする力か」と語るが、ともかく農村の生活
は苦難の一語であり、多くの苦しい生活のまま死んでいったあま
りに多くの農民の姿が、読後も叙事詩のように残り続けるのであ
る。長さ的にはそれほどの長編ではないが、なんとも密度が濃い
のだ。



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