江戸川乱歩『探偵小説三十年』1954,乱歩が語る、あくまで基本は乱歩自身の探偵小説の回顧

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 探偵小説とは戦前は一般化していたが、戦後はあまり探偵小
説とは言わなくなったと思う。推理小説とか、ミステリー小説、
だいいち何も「探偵」が出るとは限っていないのだから探偵が
出ない小説まで探偵小説はおかしいのは事実。それと大きな原
因は「探偵」の「偵」が当用漢字から外れたことで、探偵とい
う言葉自体が何か控えられた。が、ともかく江戸川乱歩のよう
な方にはやはり戦後も「#探偵小説」なんだろう。なお、これを
引き継ぐもので横溝正史『探偵小説五十年』があり、Kindleでも
読める。

 江戸川乱歩が処女作『二銭銅貨』を書いたのが大正12年、1923
年、関東大震災の年であった。それ以後30年の乱歩の探偵小説を
回顧、というわけで探偵小説全体ではない。この本は前巻とも表
示はないのに書いてあるのは初期の10年間である。

 乱歩はおそろしく丹念な人間なのか、自分について書かれたあら
ゆる文書、書評、切抜き、手紙、著書の広告までご丁寧に保存して
いたそうで、これを綴り合せたものであり、「これは私の人間とし
ての自伝ではなく、探偵作家としての履歴書である。私の立場から
見た、日本の近代探偵小説のげ変遷史である」

 乱歩、本名平井太郎は明治27年、1894年生まれ、早稲田の政経卒
で文学部ではない。多くの職業を転々としていて、30歳近くで処女
作である。

 乱歩は少年時代から架空世界を書いた作品を好み、黒岩涙香の探
偵小説を読み漁り、さらにポー、ドイルによって短編探偵小説の妙
味を知ったという。探偵趣味に溺れ、岩井三郎の探偵事務所を尋ね
ては門前払いされた。

 大正9年、1920年、探偵小説好きの友人と「智的小説刊行会」なる
ものを造り、探偵小説雑誌の刊行を試みたが、果たせなかった。だが
当時、すでに「新青年」が刊行されていた。だが探偵小説はあまり載
せず、探偵雑誌もなかったという。

 大正10年、1921年になって「新青年」が本格的に探偵小説を載せ始
め、特集増刊も刊行し始めた。それで乱歩はいよいよ自分も探偵小説
をかく時期到来と思った。その投稿小説『二銭銅貨』が採用され、小
酒井不木の推薦の辞であった。それが大正12年、1923年4月増大号だっ
た。その紹介文は「日本にも、真に外国の名作に劣らない、いや、あ
る意味では上回る長所を持った純然たる創作が生まれたのだ」で乱歩
が感激したのはいうまdめおない。

 乱歩は生活のため別の仕事を持っていたが、続いて古書店が舞台の
『D坂の殺人』、『心理試験』などで好評を博し、甲賀三郎、水谷準、
山下利三郎、横溝正史なども力作を発表、ようやく「世間に対しても
、低俗ならざる探偵小説の存在を認識せしめた」という機運が生じた。

 かくして乱歩は大正13年、1924年の末頃にプロの作家として生きて
行こうと決意した。

 『屋根裏の散歩者』、『人間椅子』は大正14年作、実は私は『人間
椅子』を乱歩の最高傑作と考えている。この年、大阪に大阪に「探偵
趣味の会」が生まれ、機関誌「探偵趣味」が創刊された。乱歩はこの
同人となり、さらに白井喬二、長谷川伸などの大衆文学作家の二十一
日会の同人にも乱歩は名をつらねた。「大衆文芸」という言葉も、実
はこの頃出来たもので、機関誌「大衆文芸」は大正15年1月二創刊され
た。

 乱歩は当時のことを回顧し「探偵小説は特殊な文学ジャンルであり、
その高さにおいて純文学と同レベルのものもあれば、その面白さで大
衆文学に匹敵のものもあり、一概に大衆文芸とも決めつけられなかった
。大衆文系の片隅の存在などと決めつけられるのを、快しとしなかった」

 関東大震災で一旦は関西に引っ越した乱歩だが、大正15年1月に東京に
戻った。・・・・・・おおむね、ここまでの記述である。

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