徳川夢声『明治は遠くなりにけり(夢声自伝・明治篇)』1962,あの「問答有用」の語り口で時代の匂いを語る
1962年、昭和37年の早川書房から、サブタイトルで夢声自伝
・明治篇、とあるから自伝の第一部ということだ。実際、そも
そも今の人には徳川夢声って何をした人、という疑問がわくだ
ろう。徳川という名前もやや畏れ多いかもしれない。むろん、
徳川家とは全く無縁で「石見の益田の出、本名は福原」である。
でも益田って福原という名前が多いのか、大学に益田出身で福
原っていた。非常に仲が悪くて印象に残っている。
徳川夢声は戦後、週刊朝日で長く続いた対談「問答有用」で、
本当に多岐にわたる各界の著名人と対談を果たしている。あれ
だけの人たちを相手に対談は容易でないと思えるが、それを、
まあ、難なくにちかくこなす包容力、というのかどうか。臨機
応変の頭の働きがある。とにかく人脈の広い方であった。徳川
夢声といえば、何か老けたイメージで最初からあの老人顔だっ
たような錯覚を受けるが、1894~1971,それほど昔の人でもな
いわけだ。歯学部時代の同期生で「父親は19世紀生まれだ」と
う奴がいたくらいで。父親が60歳過ぎてからの子だったのだろ
うが、だから徳川夢声1894年生まれと聞いて1971まで77歳、
じゃ「問答有用」の頃、基本50代でもイラストの顔は老けてみ
える。
「夢声自伝・明治篇」とのサブタイトル、副題がついている。
生まれ故郷の島根県を42年ぶりに訪れたときの話に始まってい
る。1894年生まれだから1936年、昭和11年か。出征の地、津和
野に住んだのはごく幼い時まで、すぐ両親と上京して東京居住
であった。
明治天皇崩御の日の挿話で結んでいる。70年近い生涯を振り
かえった自伝回想、明治篇だが「特になりにける」明治のにお
いを伝えようとしたいようだ。結びの挿話は、崩御の黒枠の記
事に接して「悲痛の思いと、何かこう弾んだ気持ちで外に出た」
19歳の「私」が人力車宿のおやじが大声で夫婦げんかの真最中
の場面に遭遇する。「私はツカツカとオヤジの前に歩み寄り、
『陛下がお亡くなりになったというのに、何ですか』と叱責し
たら、オヤジたちは即座に恐縮し、おとなしくなった」という。
こんな挿話が数多く書き込まれているわけだが、明治時代の
中学生が「拳骨のバット」でうつゴムまり野球に熱中した話や
、若き日の夢声の日記がそのまま引用されてもいる。
修学旅行の名古屋行の部分
「五日、ラッパに呼び起こされしは薄暗き四時頃なり。六時、
寺を発して、有名な天守閣参観。雨が途中より降り出し、見上
げれば金のしゃちほこは雨に濡れ、我らを照らせり。正午寺に
帰り、それより自有散歩」
とのどかな感じ。東京から名古屋への修学旅行ってあったん
だな、と知った。
語り口はあの「問答の有用」をそのまま、という感じの文章で
あり、ちょっと軽すぎ、重厚感は皆無だが、親しめる筆致だろう。
弁士、漫談家が本来の仕事だったが夢声だが、初舞台は「尋常
二年」の時で、途中でとちってしまい、後が続かず、そのまま演
壇から逃げ出したという苦渋な思い出、それでいまだに尾を引い
ていて、舞台を終えたのち「観客聴衆の群れに怖れを抱く」精神
があるという。また青春期の失恋が小説風に語られているが、こ
れは読ませる内容だ。
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