宿沢広朗さん、早稲田ラグビー部入部の経緯の諸説


 文武両道とは宿沢広朗さんのためにある言葉だろう。1950年
生まれ、2006年6月17日に急逝、享年55歳。1969年、大学紛争
が最盛期、東大、東京教育大(体育部以外』が入試中止、埼玉
県の熊谷高校出身の宿沢さんは東大志望だったが、早稲田政経
に入学。で、ここから、宿沢さん、いかにして早稲田ラグビー
部に入ったか、である。実際、部活へ入った経緯は曖昧な部分
がつきものだ。

 wikiでは1969年4月から東伏見の早稲田ラグビー部練習場を
何度も見に来ていた宿沢さんに木本監督が気づき、「あいつは
見ただけで帰っている。本当は入りたいんじゃないか。だった
ら入れてやれ。ついていけなきゃ、やめるだろう」

 宿沢さんのwikiは三井住友での各役職時代まで個別に詳細に
記載、ちょっと例を見ないようなものだ。誰が執筆者なのだろ
うか。

 で私が1975年、ラグビーマガジンの7月号であるが、現役を
引退の宿沢さんの記事、3頁にわたる。そこに記されていた入
部経緯は相当に異なる。今も手元にその雑誌はあるが記憶にも
鮮明だ。

 ラグビーマガジン誌1975年7月号に掲載の「選手秘話」の
画像

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 引用部分はやや要約的

 「宿沢は東伏見の早稲田ラグビー部の練習を見に行って、内
心、大学の練習もたいしたものじゃないと思った、という。そ
こで部員にキャプテンは誰がと聞き、当時のキャプテン井沢(
No,8、日本代表)に「熊谷高校でハーフをやっていた宿沢です。
入部させてください」対して井沢は「練習はきついぞ、やる気
があるなら明日から練習に来い」だが翌日、宿沢さんは全日本
FBの宮吉とさっそく並走させられ、ダウンしたという。・・・
・…ところで宿沢を語る際に避けて通れないのは全日本SHの今
里良三だ。今里について宿沢は『今里さんの早いパスはピカ一
』」などとあった。同じ号だったか、余談だが近鉄の小笠原へ
のインタビュー「今後、期待できる選手は誰だと思いますか?」
にまずイの一番で「まず慶応出の上田。彼は伸びると思います
よ、それからリコーに入った重田かな」

 宿沢さんも上田さんも早く亡くなってしまった。上田さんは
最初、東京海上からトヨタに、慶応監督になって日本一に導い
たが会社からは一切、ラグビー監督について配慮なし。給与カッ
トも容赦なく、フジTVに移った。宿沢さんは1974年卒で三井住
友、当時の銀行名は当時は住友、新橋支店配属。1977年からは
7年半もロンドン駐在、英語に堪能だった。本当に何でもできる
宿沢さんで、

 早稲田時代のプレイぶり、もう狂気じみていた。日本ラグビー
史上、今里、と並ぶ名ハーフ、だが後継というのか同郷の熊谷工
から早稲田のハーフ、堀越、も今里、宿沢に匹敵、だろう。神戸
製鋼でも日本一を重ねた原動力だった。

 宿沢さんの頃の早稲田、最後は植山がFB、二年連続日一、
1974年ウェールズ遠征も全日本代表で、だがこの年を最後に現役
を退き、キャップ数は3にとどまった。だが、その後の為替トレ
ードを中心とした仕事ぶりがすごい。脱帽である。だが亡くなる
のが早すぎた。

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