瀧井孝作『野草の花』1953,エッセイ集、俳句ベースのリアリズム、写実による文章の追求
昭和28年5月に筑摩書房から刊行された瀧井孝作『野草の花』
、随想、エッセイ集である。瀧井さんは俳句がその出発であり、
ベースにある。河東碧梧桐に師事し、小説では志賀直哉に師事し
ていた。その俳句の写実性というか感性が小説になっても、もち
ろんエッセイになっても基盤にある。だから文章にはこだわりが
ある。小説では昭和2年、1927年の『無限抱擁』が代表作とされ
るが、なにしろ寡作では人後に落ちない作家である。文章には
半端でないこだわりがある。
瀧井さんは自然や人間を出来るだけ、的確に表面から描写しよ
うとしている。端的に言えば写実というべきだろう。瀧井さんは
このような描写をリアリズムと呼んでいる。瀧井さんの文章は、
すっきりして分かりやすいかと云えば、実際逆であり、非常に難
渋を極めているのだ。とにかく写実、リアリズムの描写を的確に
一つの文章に盛り込もうとするのだ。
文章について瀧井さん、こう書いている
「ものごとをハッキリと見定めて、底の方までとおった言葉で
一行一行充実した文章。これは速筆では駄目で、じりじりと、精を
出すほかないようでした・・・・・私は徹夜して、ウンウン歯を食
いしばって力んでいて、一枚も出来ず、朝方歯が浮いてしまって物
が噛めない事もあるのでした。筋立ても構成も分かっていながら一
枚も書けないのは、文章に拘るからでした」
やはり筆致は『無限抱擁』だな、と思わせるが、またこうも
「私は、生生脈脈とした、、天然自然、四季の移り変わり、人間
も含めた生物、感情の流れうごくもの。美しいものの手本はこれだ
と思って、自然に素直に倣えば間違いない、と信じている方で。自
然については、自分の小細工は必要がない。これ以上、一分一厘も
増減の必要がない、と信じている方で。私は、自分の体験を素朴に
さらけだして、無学無能無才を看板にしている方で。捨て身で無我
無心に、自然に没入したい方で。この方法が身について、今は、正
直に、律儀に、この方法を信仰しているのでした」
かくのごときの文章への信念というか信仰を持つ瀧井さんが、そ
のような態度で書いたエッセイを集めたのがまさしくこの本なのだ。
実際、瀧井さんの文章は「歯を食いしばって力んで」書いたのでは、
と思わせる文章だと思える。苦心しても苦心の形跡が消えている文
章なら、読者にもさほど抵抗もないのだが、やはり読む方にこれは
プレッシャめいてくる。
例えば
「曇天の朝天ながら、北の空の厚い雲の中の一寸穴が明いて雲の
穴の中に青空を覗いたけしき看て『北の空に窓が明いている』と云
た」
また「新人の文章」というセクションは長い。内容は主として瀧井
さんの「文章」への感想だ。この中で、ある作品に懐疑の精神がない
という批評がなされたことに抗議し、瀧井さんは
「講壇哲学で云われる懐疑の精神は知らないが、作家精神、作家の
方法としては、形式や型に疑いを持ち、信用できず、型や形式に従え
ないから、実際の物に即応して直にぶつかっているので」
と書いている。「型や形式」には苦悩しても、思想そのものには懐
疑しないという瀧井さんの態度がよく示されている。
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