三島由紀夫『私の遍歴時代』決してルーツを語らない、文学批評の才はハイレベルだが俗物性の強さを感じさせる
正直、三島由紀夫は真に自分を語らない作家だったと思う。」
最大のものはルーツを語らない。神吉村だったか、兵庫県の貧
農の出だが立身出世を遂げた祖父、実は隔世遺伝というほど祖父
の容貌に三島由紀夫は似ている。世に「どこのお公家さんの出?」
というほどの「誤解」を招いていた三島由紀夫の絶えざるポーズ。
小説は?私は文学評論、批評にこそ三島由紀夫は真の才能があっ
たと思う。小説はさほど評価に値しないと考える。
『私の遍歴時代』年代は1925年、大正14年生まれだ。戦中派
の三島由紀夫だ。あの時代に育ってあのような思想、考えにな
ぜ取りつかれた、取りついたという疑問はわく。この本でもそ
れは解明できない。また父型のルーツ、祖父のことにはふれて
いない。
この本では三島由紀夫こと平岡公威の17歳から26歳までの文
学修業時代、新進作家時代のことが述べられている。昭和で言
えばそのままで昭和16年から昭和26年まで、何とも熾烈な戦時
下体制、終戦後の混乱、どさくさ、東京は焼け野原からの復興
の時代である。その時代状況下で自己をいかに形成したのか、
である。辿り着いた思想はいかに異様であろうと、でもあまり
に厳しい時代状況であった。その受け取り方、だ。
文壇の相互の連絡、コミュニケーションが経たれたに等しい
あの時代、さらに死が現実に迫っているという思いに支配され
ていた時代、・・・・・だったのだが、別段、食う心配もなか
ったのだろうか。受験も就職の心配もない。その未来について
も自分の責任でどうこう出来るわけでもなく、あの時代ではど
うも珍しく、生活的、また文学の上でも幸福であったように見
える。別段、うるさい批評家もおらずライバルもいない。皆、
食うに必死の時代、妙に余裕があった、が徴兵検査は兵庫県の
本籍地で受けているが、それについて記述はない。「自分一人
だけの文学的快楽、いわば無重力状態」それでいいのかな、と
さえ思えるが、それが結果的に後年のあの行為につながったと
も言えるかもしれない。そこで三島は中世の文学の研究に打ち
込んだという。
学習院の交友関係を中心とする「文芸文化」の国文学者たち。
詩人の林富士馬、さらに富士正晴、このつながりも戦時下ならで
はだろう。
終戦で安堵というのは国民、偽らざる思いだったのだが、三島
は「そして不幸は終戦とともに突然、私を襲ってきた」未来の確
実な死が消失、・・・・・というのだが徴兵検査で実質、徴兵忌
避を行ったことを思うと、何ともウソ偽りの文章と云わざるを得
ない。
学習院から東大法学部、そこで自分の戦時下の教養など時代遅れ
と実感、そこから自分の原稿をもって先輩作家や出版社に通ってア
ピールだが。そのとき三島の眼に映った保田与重郎、太宰治、川端
康成らの印象。だがまだ学生時代、伊東静雄を訪問したとは書いて
いない。三島の訪問を受けた伊東静雄、その夜の日記に三島につい
て「俗物である」と書いていたことは留意すべきだろう。
かくして文学的出発をした三島が新進作家として野間宏、武田泰
淳、椎名麟三などの戦時下ですでに自己を形成している左翼性のある
作家と遭遇、そこで繰り広げられるさまざまな事件は戦後の混沌でし
か見られない、面白い物ではある。
同時にエッセイも収録されていて「谷崎潤一郎論」などは、その文
学批評の才能を感じさせる。これは中央公論の文学全集「日本の文学」
の編集員として何巻かの解説を担当した、その文章からもうかがえる
。その他エッセイ「現代史としての小説」、「わが創作方法」、「変
質した優雅」などはそれぞれいいが、別に意固地な分からず屋でない
ことは証明される。最後は「喜びの琴」を上演中止した文学座への怒
りがぶちまけられている。杉村春子のコメントも考えると、やはり穏
当でないのは三島の方だと思える。
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