真山美保『日本中が私の劇場』決定版、有紀書房 1962,新制作座、その苦難と庶民を対象の演劇への情熱を語る


 最初は1957年、昭和32年に平凡社から『日本中が私の劇場』
、その後1962年、決定版の『日本中が私の劇場』、基本内容は
変わっていない。平凡社からの初版の「あとがき」には「この
本は演劇の専門書でもありませんし、教養書でもありません。
私という一人の女の精一杯の生き方の記録であり、新制作座と
いう若い劇団の七年間の歩みの記録でもあります」

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 中学校の頃だったか、新制作座の公演が学校で行われ、それ
で劇団名、真山美保、その父親の真山青果という名前が頭に残
っていた。演目はジョルジュ・サンド「愛の妖精」,随分とディ
フォルメしてあって、主人公の野生児ファデットがちょっと。

 真山美保さんが新劇俳優になろうと思ったのは19歳の頃、「
随分前から、幼いころから私の悲願は自分の働いたお金で生き
ていきたいということだった。それは後妻に来て、女として涙
の多い生活を送った母の姿が私にそう思わせた、のではと」

 父親の真山青果の反対を押し切って劇団入り、前進座、民衆座、
新協劇団を経て新制作座を創立。俳優修業時代は「真山青果の娘
だから反動的だ、ヤキを入れてやる」と云われ続け、新制作座を
設立すると反動分子の刻印がおされ、、つるし上げに。だが美保
さんは、最初から思想、イデオロギーの問題にはこだわることな
く、芸術の方針として「大衆の中に、大衆とともに」という基本
スローガンをまず定め、新劇という既成概念にとらわれず、民族
的な演劇を作ろうと努めた。演劇はまことに人間臭い仕事だから
、俳優は最も人間らしくなければならない、「観客の生活に結び
つく、これが新劇だ」と云われる。

 タイトルは「日本中が私の劇場」これはこの本の前半部を占め
ている。1950年、秋に新制作座を創立以来、この本の刊行までの
記録となる。

 東京、名古屋、大阪、広島、福岡など大都市での公演は無論、
あるが全国各地、工場から農村、学校と列車やトラックで巡演を
続け、「泥かぶら」の公演だけでも1952年初頭まで1600回に及ん
だ。

 小学校の講堂、地域の公会堂、野外公演で東京公演と同じ内容
の演劇を行う、同じような舞台設営だから劇団員は泣かされ、絶
望してしまう。開幕前に入りを見てほしい、と頼まれても怖くて
見に行けない。客席が満員ならうれしく泣いて、入りが悪いと愕
然としてさらなる演技の向上を誓う、地元の劇団から営業妨害だ
と怒鳴りこまれたり。

 美保さんは女優であると同時に、座付作者だ。主な作品は「
泥かぶら」、「草青みたり」、「市川馬五郎一座顛末記」、「あ
あバラは何処に咲く」、稽古場もなくて、複雑な舞台の手順がぶ
っつけ本番になる、作家であり、演出家、出演俳優でもある美保
さんはそのあまりの負担、プレッシャに発狂寸前とさえなった。
「気迫だけでも持ってぶつかっていく」と団員を激励しか道がな
かったという。

 後半は、父の真山青果を語る「羽虫は何故か知らんだろう」と、
これまで発表してきた、演劇についての短めな論文。さらに随筆
「折々の記」、で三部構成となっている。随筆は30の短文を主題
別に集めたもので、自身の生い立ち、演劇への抱負、素直な文章
で美保さんのかどのないお人柄がしのばれる。そこでの新劇批判
は厳しい。なぜ先発の新劇がかくも、もったいぶって芸術を抽象
化し、わかりにくくしたのか、だ。新劇とは古い時代への正しい
批判であるべきであり、現実の可能な改善へ貢献するものでなけ
ればならないという。演劇への情熱がうかがえる。真山美保さん
は2006年、83歳で亡くなられた。

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