アンネ・フランク『光のほのかに』皆藤幸蔵訳、文藝春秋新社、1953年1月、「アンネの日記」の初の日本語訳


 もうあまりに有名になっている「アンネの日記」だが、初
の日本語訳はこれである。昭和28年、1953年1月であった。
それが時期的に遅かったのか、早いと言えるのか、終戦後の
日本のドサクサを思えば遅すぎるとも言えないだろう。

 最初の翻訳が単刀直入の原題そのままの「アンネの日記」
でなく「光ほのかに」、ただ同タイトルで海軍兵学校出身者
の本もあるので注意が必要。文藝春秋新社刊行である。

 もう「アンネの日記」など知っている、という人は多いが、
意外に熟読玩味した人、日本人は一般的でないかもしれない。
ただ雰囲気に浸って、読み飛ばしてしまうケースが多いので
はないか、私だってそうだったが、それでも味読したい気持
ちは強かった。虚心坦懐に読みたかった本だが、本邦初訳が
さて、どうかと思うと、また違った意味の興味もわくという
ものだ。なお『アンネの日記』はオランダ語で書かれている。

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 13歳の少女が克明に描き続けたほぼ2年間の日記である。
オランダは開戦早々、ナチスドイツの電撃戦で占領されてい
た。ユダヤ人であるアンネ・フランクの一家はオランダに移っ
ていて、父親は商売に励み、アンネと姉のマルゴットは学校に
通っていたがドイツに占領され、アンネ一家はアムステルダム
の運河に面した事務所用の古いビルの一角に隠れ住んだ。両親
と姉とアンネの四人家族、間もなくファン・ダーン夫妻とその
息子のペーターと、歯科医師一人が加わり、8人がナチスの手
の逃れ、戦々恐々とした神経をすり減らすような生活を送って
いたのだ。その幽閉の2年間における日記。

 始まりは1942年6月14日、この日は彼女の13歳の誕生日で、
そのお祝いで日記帳が贈られたのである。冒頭で「私はこれ
まで誰にも打ち明けられなかったことを、全部あなた(日記)
に打ち明けられることを祈ります。そしてあなたが私にとっ
て大きな心の支えとなり、慰めとなることを祈ります」と書
いている。

 親切な友人、知人たちがこっそり食料、衣類、本などを運
んで来てくれる。だが不断の恐怖、飢餓に直面し、非常に特
異な環境で生活する人たちの人間関係は、おそろしく歪めら
れたものとなり、鋭い感受性をもった少女には耐えがたいも
のであった。「まるで世界がひっくり返ったような、いろん
なことが起こりました。でも私はまだ生きています。お父さ
んはそれが大切だと言いました」

 一歩も外でに出ることが出来ない、のも非常につらいが、
肉親への不満や嫉妬も彼女を大きく悩ませた、姉は「世界中
で一番きれいで、一番かわいいかもしれませんが、私だって
真面目に考えてそういわれる権利があると思います」そのよ
うな感情はアンネの子悪露の成長ということであり、春の芽
生えであったようだ。二つ年長のぺーターへの思慕は美しく
描かれている。

 戦争の進展につれて、連合軍有利という状況は一家に希望
を抱かせ始めていたが、何らかの密告でナチス警察は一家を
襲撃し、とらえた。8名を強制収容所送りにした。1944年8
月4日でその3日前で日記は終わっている。警察が家財道具な
どを持ち去った後、散乱した部屋の中で発見されて終戦まで
大切に保管されていた。生きて収容所を出られたのは父親の
みであった。アンネは大戦終了の約二か月前にベルゲン収容
所で強度の栄養失調、不衛生の中で感染症に罹患、亡くなっ
たとされる。

 それにしても、あまりに苛酷で屈辱的な生活の中で、か
くも崇高な気高い生活の輝きを見出し、豊かな感受性と叡智
で真摯に綴られた日記は本当に素晴らしいと感じる。醜い人
間関係にも悩みながら、自己反省も怠らず、書かれた日記は
確かに人類の至宝というべきか。

 別に日記には書かれていないが、隠れ家に入る前に父親は
イギリス、アメリカ、特にアメリカへの移住を熱心に試みて
いたが、当時のアメリカの反ユダヤ感情、反移民感情もあり
、そもそも容易でなくアメリカが移民名目でのスパイ流入を
極度に警戒していたこと、1941年のロッテルダム空襲でアメ
リカ領事館が破壊され、移住の道は完全に閉ざされた。1941
年末にキューバへの移住が一人分、許可されたがアメリカの
ドイツ宣戦布告でこれも無為に終わった。隠れ家からスイス、
スペインなどへの移住も徹底した検問所、国境閉鎖で不可能
だった。




 

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