福原麟太郎『随想集:われ愚人を愛す』1952、時代の古さをいやでも感じてしまう。
福原麟太郎は福山市の出身で旧制福山中学、現在の誠之館
高校の卒業、名門の東京高等師範学校卒、さらにロンドン大
学留学、帰国後、東京高師、東京文理大教授、戦後は東京教
育大教授、共立女子大教授、研究社の雑誌「英語青年」で長
く執筆、学生指導を行った。容貌と同郷、同じ旧制中学とい
うてんで井伏鱒二を想起するのも自然かもしれない。
その随想集は多い、というより小説、文学作品を書くわけ
でもない、主著は英語、英文学の専門的書、翻訳、エッセイ
となる。特にエッセイが最も多いのである。
この本、33篇のエッセイを集めている。英文学者であること
がベースの著者の人生哲学、というのか、哲学というほど大げ
さではない。
「個人の身の上を語ることによって人々の心の中にきっと潜
んでいるに違いない或るポイントに触れ、その共鳴を求めてお
互いに人間であることを楽しもうとする」という著者、福原麟
太郎である。そこから東西の文化を論じ、中庸人、平凡人の立
場を説明し、英語上達の奥義を講義していると思う。
換言すれば、著者は個々の事実のうちに万人に通じる普遍的
なものを探求しているようである。したがって、この本には定
義、あるいは定義に近いようなものが数多く出てくる。例えば
インテリゲンチャというのは、一つの階層から他の階層に移れ
ない人を云うので、闇屋になれない性質を持っている、と。ま
だ昭和27年以前の状況を勘案してだから闇屋が大きな社会的存
在だった。
さらに伝統というのは、ただつながっている、ということで
はなく、「一つの世代が持った疑問を次の世代が解決し、それ
が新しい疑問を生み、それをまた次の世代が解決し、そのよう
につながっていくこと」だという。ただ「措法であります」と
墨守ではなく、改革こそ伝統という考えに近い。「疑問の継続」
が伝統の本質、だとすれば日本には疑問の継続がない、墨守と
混乱があるのみである。あの日本で猥褻騒動、裁判にもなった
D・H・ロレンスの小説は決して好色文学ではないという。
ロレンスの小説は「あそこにはセックスの欲望が太陽の如く
輝いている。この赫赫たる太陽の下にあっては好色は郵便局
の如く、お菓子屋の如く、当たり前の存在であった、好奇心
や虚栄や慎みの対象ではない」奇妙な言い方ではあるが。
英語上達法は「真似ること、覚えることと使うこと」に尽き
るが、日本人に英国人並みの英語はしょせん望めない、という。
著者は今日の、といって昭和20年代中頃だが、青年はハムレ
ット的だという。それは行動的であるが、生活に即応する叡智
に欠け、観念の公式にはまっているからである。
「明快な判断力を持っているらしく思えて、実は知的に脆弱
で不用意である」角帽(古い!)の階級意識を取り上げて、土
木工事をやっても、街頭にピーナツを売っても「おれはこんな
、くだらないことをしているが、根っからの体たらくじゃない
か」と角帽に物を言わせる。
明治から当時までの大学教授の変遷を取っているが、帰結す
るところは学問と人物の関係である。しみったれはしみったれ
の学問の風を生み、出世好きは見せかけの良い学風を、・・・
・・・
しかし、もう刊行されて74年である。時代のギャップも感じ
てしまう。
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