亀井勝一郎『二十世紀日本の理想像』1954、終戦後間もない時代における理想像とは
21世紀になったが人類は混迷に陥って先が見えない。明るい
展望はない。だが世界のほとんどの国から最終的に宣戦布告さ
れ、焦土と化して明治以降の領土、委任統治領をすべて喪失ど
ころか沖縄、北方領土、小笠原諸島も喪失、世界の五等国に転
落、都市は焦土化、・・・・・そこから8年ほど後の日本を代表
の知識人の思い描いた20世紀日本の理想像、である。
「私が語ろうとするのは、現代の混乱に抵抗するには如何な
る精神能力を必要とするのか、いわば、抵抗像を形成するため
の諸考察である。日本の新しいバックボーンの探求といっても
よい」
「現代には様々の思想、流派、、立場がある。いずれをとる
べきか、を我々は考えるが、それよりも前に、どれにも共通し
てあらわれている精神の危機の諸現象を、まず自他において正
視することが大切ではあるまいか」
そこで第一に気がつくのは
「言葉の崩壊、あるいは表現能力の衰弱である」
「現代は裁断と裁断の合戦時代だ。可能な限り、正確な判断
に達しようとするための時間が失われた」
そのために心情のニュアンスが抹殺され、精神の画一性が強い
られ、それで誰もが同じようなことを云う。
第二には、「多面的好奇心からくる精神分裂と、それに伴う
速成化の傾向である」という。
戦後、特に普及した「ダイジェスト」は、その疲労を最小限
に食い止めようとする「安全装置」であったかもしれないが、「
知的努力の省略」という別の危険をもたらした。
第三は「事物は精神の膨張あるいは誇張表現である」というが
「断固として」、「死を賭して」などの言葉が乱用され、「涙」
が自己をあざむき、「笑い」が空虚をごまかすという。
第四は「現代ジャーナリズムの魔術的性格である」人目を欹て
るもの、驚嘆を呼び起こすものの追求が、個人の意思を超えて強
制され、見物人意識、傍観者としての好奇心が知らず知らず我々
の内部に形成されている。
第五は「現代的娯楽の過剰からくる一種の頽廃減少である」
一切を娯楽化し、眺めようとする心理が生まれ、娯楽性は
賭博性に結びつくという。
で著者の亀井は、このような精神の危機への抵抗像はいか
にあるべきか、ということを「非寛容の美徳」、「革命家の
倫理」、「熟練者」「大都会における知的英雄」「人間教育
の技術」「政治家と芸術家」、「東洋への回帰」という七つ
の章を分けて解く。
「多面的な好奇心から来る精神の分裂と、これに伴う速成
化」は一切を鵜呑みにし、矛盾を矛盾と思わないで、これを
拒絶を知らぬ精神の怠惰を意味する。権威ある非寛容の精神
が欠落し、真の意味における持続的な対決がなされていない
からだ、という。この「拒絶の精神」が理想像の形成する重
要な一要素と著者は語る、これは自分の考えを固執して他の
考えをどこまでも排するものではなく、自らの内部で激烈な
対話を持続して、自らを鍛えるということである。
そこで亀井は「私有観念の否定」という苦行を自己に課す
べきだという。あたかも私有財産制を否定するように、自分
の判断判断による限定を否定するわけで、この考えは自分が
未完成であるという自覚から来る。亀井の言葉によれば「無
限定の叡智」である。
ところがこの「無限定の叡智」と考えるものが、微温的な
超越感に堕ちる危険がある、悟ったようなポーズをつくる人
間が出来上がることもある。人間は自力でやって弊害の伴わ
ないことはない。この危険を免れるためには「廻向」という
仏教の思想をもってくるのだ。
「廻向とは、言葉の上からいうと、さまよえるものを此方
へ向けかえる。ある方向に身を転じさすという意味だが、人
間のもつあらゆる能力は、彼個人の自力だけで得たのではな
く、先師や先輩や乃至は民衆の集合によって促され、与えら
れたものだという自覚である」
とまあ、亀井はこのような、わかりにくいの一語につきる
ことを、内村鑑三、毛沢東。ガンジー、ネールらの言葉を引
いて語るのだが、人に説くというより、亀井が自分の思想の
経路を語る形にしたほうが、多少なりともわかりやすいだろ
う。ただ亀井の都合の良い部分に読者をひっぱっていかれる
ので、どうも読んで満足感が希薄だ。
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